金蔵の時代(2013年10月05日)
しかし…市場とは、勝手気ままな世界だなぁ~と昔から感じています。
一般的な投資尺度として「PER」と言うものがあります。毎年稼ぎだす純利益を、発行済み株式総数で割ったものが、一株当たりの利益で「EPS」と言いますが、この利益水準を基に、株価を10倍まで買うと言うのが、現在の市場のコンセンサス(合意)です。つまりその企業は、10年間は、その利益を稼ぎ出すので、その企業価値はPER10倍程度の評価が妥当だろうと言う、市場の「暗黙の了承」が存在します。丁度、日銀券やドル紙幣が紙屑なのに、皆が、その紙くずを一定の価値に置き換えている「暗黙の了承」と同じ意味ですね。まぁ、ここで言う10倍が正しいのかどうかは、意見が割れますが、そんな認識が市場にはあります。だからPER5倍だと割安だとか…PERが50倍だと割高だとか言われる訳です。
しかしこの市場評価の基準は、時代により「ものさし」が変わります。カタルが証券界に入った頃はPER30倍程度が基準だったように感じます。その理由は、その時代は日本全体の成長率が高く、5%~7%程度の成長率が当たり前の時代でした。今では、信じられないかもしれませんが6.1%の利率の国債、通称「61国債」を販売するのに苦労していた時代です。カタルが最初に売った販売のノルマが、国債の100万円でした。「元本保証」と謳って国債を売っていたのですが、その国債を買ったお客様が、半年後位に換金に来られ、国債を売却すると100万円が、95万円程度だったか、90万円程度だったか…、記憶は定かであありませんが、兎に角、僕は自分の言っていた元本保証を約束できなかったのです。
小さな証券会社ですし当時は社員教育も疎かだったのです。10年の償還まで持っていれば元本保証なのですね。途中で売る場合は、市場動向により高くなる場合もあれば、安くなる場合もあります。こんな初歩的な知識もなく、国債を販売していたわけです。その為に悩み、一時は証券会社を辞めようかと思ったほどです。嘘をつくのが、耐えられなかったわけです。そんな小さな積み重ねがあり、今ではかなり世の中の仕組みが分かるようになってきました。月間株式手数料1000万円と言うのは、今でもトップクラスの水準だと思います。これを達成したのは4年生か5年生の頃ですね。小野薬品が大相場を演じた時だったと思います。考えてみれば分かります。金融マンの年収が1000万なら、僅か1か月で年収分を稼ぐのですから、優秀な部類だったのでしょう。こんな脇道の話をしていると本題が逸れますので戻しますが、時代によりPERの評価が変わる訳です。
カタルが証券界に入社した当時、株式の持ち合い制度が確立されており、銀行株の売買などは、一度、銀行の資金運用部?に電話をして「御行の株式を1万株売りたい人が居ますが、どうしましょう。」市場には注文を出す前に、銀行に電話をしていた時代です。そうすると信用を重んじる銀行は、株価を維持するために買い手を探してくれ、直ぐに売買が成立する仕組みでした。それほど株式の持ち合い制度が確立していたのですね。
あれはスーパーの公募増資の時だったかな?
取引先リストが持って回りセールスに行くわけです。例えばイオンの取引先は非常に多いですね。製品を納入する業者は数が多く、そのリストを基に、セールスに回ります。大概はそれでノルマは終了です。取引先は簡単に株式を売りませんね。こうやって持ち合い株制度は確立して行きました。この制度の推進役が、野村証券です。その為に日本の株式は世界から見て、利益水準の割に株価が高くPERが割高だったのです。この持ち合い制度の仕組みが解消されたのが、2000年に入ってからでしょう。今でも資本関係が保たれている企業もありますが…概ね、解消されました。長年、企業にとって株主総会はお飾りだったのです。
このような仕組みは、日本村社会に多く残っており、グローバル化の洗礼を受け、この仕組みの転換に掛かったのが「失われた時代」です。何もデフレ時代は、政策が悪かっただけでなく、過去の偽造社会の修正が、主眼にあったのですね。日本村社会がグローバル化するために、プラザ合意以降、何年にも及び仕組みを変化させてきました。銀行の自己資本比率規制なども、同じ土壌下にあります。社会全体が日米同盟により守られた、保護の55年体制時代から変化を遂げてきたのです。この期間が失われた過去の仕組みの清算の時代でした。江戸時代の徳川時代の清算の為に、明治政府は会津を仮想敵国として祭り上げ、見せしめに叩いたのです。だから会津の人は近年まで、「薩摩憎し」の感情がありましたね。皆さんのおじいちゃんに聞いてみれば、その時代を知る人も居るでしょう。徳川幕府に保護されていた東本願寺も、時代が変わり明治政府に苛められ、北海道開拓に利用されました。歴史は面白いですね。この時代にアイヌ民族は迫害されていきます。
兎も角、日本はプラザ合意から始まった制度改革をようやく終えたのが、ダヴィンチなどが創業した1998年頃と思われます。その後は惰性で…失政の連続です。また15年も掛かる訳ですね。人々の認識の変化には、世代交代と言う時間が経過しないと、新しい時代の幕が開かないのでしょう。きっと…。黒船来航から明治政府の内部抗争が終る西南の役まで、1853年から1877年ですから実に24年掛かっています。1985年がプラザ合意ですから、2009年が24年目になります。現代は明治14年頃の時代にあるのでしょう。この明治14年(1881年)に政変が起きています。伊藤博文や井上毅が支持するビスマルク憲法か、イギリスの議院内閣制を憲法にするか争われた大隈重信などが対立する立憲体制を巡る争いですね。何故か、安倍政権は日本国憲法の改正を掲げているのは、奇妙にも時代が一致します。因みに大日本国憲法は1889年に公布され、1890年に施行されています。まさに「歴史は繰り返す」なのでしょう。
先日、伊勢神宮では「式年遷宮」の儀式が行われました。当たっているかどうか定かではありませんが、前は東側の「米蔵」と呼ばれる敷地に、天照大御神が鎮座されていましたが、「米蔵」の時代は、食は満ち足りているが、経済は低迷し、助け合う時代なのだそうです。今度、遷宮された西側は「金蔵」と呼ばれており、この時代は世の中が忙しくなり、人間関係は疎遠になりますが、経済的には発展するインフレの時代なのだそうです。本当かな? でも、この見方は面白いですね。
僕らの概念と言うものは、時代により認識が大きく変わるのですね。冒頭のPERの話しからこんな展開に…今日の原稿は相成りましたが、実は、今日の狙いは、「オバマ・ケア」で揉める米国議会の混乱は、釣りで使われる「疑似餌」のようなものと言う解説に、皆さんの思考パターンを誘導しようと、原稿を書く前に思っていたのです。カタルの原稿は、時々、書いている途中で、異次元空間に飛ぶので困ったものです。疑似餌の話は、又にしましょう。何しろ長くなったので…。それでは、また明日。