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迷う時間の潮(2012年03月11日)
一年前の震災を通じて…あの津波の映像を観て多くの人は、何か自分に出来ることはないか?と模索し、人生のあり方を考えたことでしょう。あれから1年が経過し、最近は、「がれき処理」を受け入れない自治体の話がメディアに良く取り上げられています。石巻では106年分のがれきが積まれていると報道されていました。全体ではわずか6%の処理しか進んでないとか…。一部の反対者は必ず居ますが、その少数派の意見を重視するあまり、時代の流れが止まった成田闘争は、日本の恥部でしょう。同列のがれき処理問題。毎日、目にする光景は、人間のやる気に大きな影響を及ぼします。
多くの自己啓発書は、モチベーションを高める手段として視覚化(ビジュアル化)を取り上げています。自分で目標を掲げ書いて…普段から目に見える場所に貼っておき、意識付けを高めるわけですね。パブロフの犬の実験と同じで、条件反射の習性を利用するのでしょう。もし毎日暮らす街にがれきの山があり、その光景を毎日見ていたら…とても復興が進んだとは思えないでしょうね。少数の反対者が居る為に、行動を起こせない地方自治体の長は、リーダーの資格があるのでしょうか? 毎日見る光景のがれきの山が、目に見えて毎日減って行ったら…これは逆に復興に対するプラスのモチベーションに変わりますね。
人間の感情は微妙なものです。怒りは些細なことで爆発します。その切っ掛けが原因ではありません。過去の蓄積が、積もり積もって爆発に結びつくのですね。これが人間心理。株の世界も同じことですね。長い期間、相場がない銘柄が、一度、本格的な躍動を開始したら簡単に止まるものではありません。今日は相場論ではなく人生の考え方の問題を語ってみたかったのです。震災で多くの人が自分の生き方を考えたように…僕ら日本人は豊かさと言う言葉を取り違えていたのではないか? 敗者の論理かも知れません。しかし最近よく考えるようになっています。
僕の場合、一つの切っ掛けは、サラリーマンをやっているT君の毎年送ってくる年賀状で、抱えるほど大きな黒鯛の写真です。毎年、同じような写真なので、毎年同じものを使っているのかな?と思い、2枚、3枚と年賀状の写真を比べてみたものでした。彼の趣味は釣りで、毎週、釣りに出かけていると言う話です。釣りの話をする彼はとても幸せそうに見えるのですね。一方、僕は、立ちはだかる壁に向かって無謀な挑戦を毎日繰り返して、ジレンマの毎日でした。とうとう切れたのは一昨年です。僕にはルールが見えなくなったのです。
恣意的に変化するルールは、公正ではなく、一所懸命に努力をする人間をあざけ笑うようでした。壁の高さとプレッシャーに負けたのが、久々の挫折です。同級会での彼の笑顔と僕の心はいつも対照的な構図でしたね。最近は市場原理とは正しいのかな?とも考える始末です。イランの歴史を見ると…翻弄されています。まるでルールが当事者によって変化する日本のように…一本気な性格の僕にとって、どうも生きにくい世界です。約束は約束、言ったことは口に出した以上、守らねばならない。しかし世の中は違いますね。こんな年になっても青臭い事を考えて生きているなんて…
時計の針が前に進むと時間になります。後ろに進むと思い出になります。でも時計の針は止まったままだ…と述べた編集手帳。でも僕は違うと思います。心の時間は人間それぞれが持った時間軸で客観化できないのでしょう。実際に前に向かって努力し歩んでいる人はたくさんいます。210日間も延長された失業手当の受給者は1万人いるとか…社会的な弱者には違いないが、甘えも程々にしないとならない。何処か…弱者の味方が正義の味方と勘違いしてないだろうか?この風潮を日本人に植え付けたのは、メディアではないか?
失われた時代、ではなく僕らが、自ら、失った時代に浸っていたのかな?
過剰流動性による金融相場は24年ぶりと言いますが…。世間で動く景色と、心の景色の時間軸は、何処かずれている様な日々を感じて過ごしています。迷える時間の渦巻の中に放り込まれたような印象ですね。