思わぬ相場の真実が発見できる

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ビスタからの原稿1(2007年1月)(2009年11月23日)

これよりコラムでは3回連続で過去にかたるが書いたビスタの原稿を掲載します。この『時代背景を考える』は大勢観を養う意味で大切だと考えるので、ビスタより拝借しました。以下本文です。…

失われた時代を考えると多くのヒントがあります。それまでの日本は「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と呼ばれ、焦土と化した戦後の日本の復興は奇跡と世界中から賞賛されていたのです。その影には適正な資金配分による、大蔵官僚の努力があります。貴重な外貨を有効に使い、電力債やNTT債はインフラ整備の為に編み出された素晴らしい仕組みでした。資金難の中で社会資本を整備し、日本を加工貿易国家に作り変えた経済成長は目を見張るものがありました。今は批判されていますが、ガソリン税などの特別会計の仕組みは有効に機能していた時期もあったのです。

ところが…1985年のプラザ合意の辺りから日本の政策当局の機能が停止します。この当時の日銀総裁は澄田智です。元大蔵事務次官のあと輸出入銀行総裁から日銀総裁。現在はユニセフの理事長をやっています。かれは1984年から日銀総裁になります。その時の総理大臣は中曽根康弘、大蔵大臣は竹下登です。当時、アメリカは膨大な貿易赤字を抱え苦しんでいました。対日貿易赤字解消の為にプラザ合意が実行に移されます。その為に235円ぐらいだった円は、僅か1年後に120円台になるのです。

このプラザ合意の過程で起こったのが資産バブルです。株と地価が急騰していきます。日銀総裁は資産価格が跳ね上がる中で、為替相場を気にするあまり低金利状態を容認し、銀行の貸し出し競争を煽っていたのです。農耕民族である日本人も土地は先祖伝来から引き継がれたもので、非常に大切で上がり続けるという土地神話も事態を複雑にしました。

この影で、巧妙な仕掛け作りが進みます。1988年に大阪証券取引所に株式先物相場制度が導入されます。このために裁定取引と言う仕組み上、株価は更に上昇して行き1989年末に38915円の高値を付け、今度は逆に解消売りで叩かれるのです。

日経平均株価

この先物導入の後の仕掛けがBIS規制です。バーゼル銀行監督委員会はバブル期の日本の銀行の躍進を考えていました。リスク管理が欠如していると…1988年にBIS規制の国際ルールが発表され、銀行は自己資本比率規制(最低8%)を1992年12月に国際ルールで盛り込まれるのです。株が下がるとは考えていない当時の銀行は持ち合い株式の含み利益があった時の話しです。(含み利益の45%の参入が認められる)この規制により銀行は貸し出し枠にセーブが掛かります。

この時の日銀総裁は1989年から就任した三重野康です。彼は東大法学部から日銀に入ったエリートです。現在は大学教授。彼のあだ名は「平成の鬼平」

株価が急落し地価が下がり始めているのに、彼はなかなか利下げを実行しませんでした。どんどん株と土地は下がり傷口が拡大します。BIS規制の為に、銀行は融資できずお金が市場に還流しない事態が生まれたのです。流動性が不足しているのに、日銀はなかなか金利を下げないのです。この致命的な金融政策が、その後の不良債権の山を築いた原因の一つでもあります。

先物から株が売られ銀行の含み利益が含み損に変わり自己資本が毀損していきます。こうして90年代は、銀行がリスク資産の持ち合い株式を売ることを強いられます。かくして長い株価の下落相場が始まりました。この売られた株式を買うのが外人投資家です。

外人の買い越し額

過剰借り入れで資産投資していた企業が、バブル期に踊っていました。上場企業のかなりの経営者は本業に関係ない絵画を購入したり、財テクと称し株を買ったり、中にはゴルフ場を造ったりする会社が多く増えました。みんな銀行の指導です。背景に銀行の貸し出し競争がありましたからね。バブル期の過剰借り入れはいつしか不良債権に変わり、過剰な生産設備は競争力が維持できる中国などへ移行し、日本の製造業には空洞化現象が生じます。よって過剰な人員はリストラと言う形で整理を余儀なくされたのが失われた時代です。

この間、およそ14年の歳月が費やされます。1989年から2003年まで…
世界一優秀な官僚制度と賞賛された仕組みは、ノーパンしゃぶしゃぶ事件(接待の為に使われたノーパンの女の子がしゃぶしゃぶを給仕するレストランの顧客名簿に多くの官僚の名前があった)に代表されるように、組織の形態を維持できなくなっていました。道路特別財源は使いきり予算の為に、年度末になると生産性を生まない投資に変わり、ただ土を掘っては埋める作業代に消えています。今も自治体の多くの予算は、必要ない非生産的な箱物に変わっています。維持費も払えないのに…。必然的に夕張市のような財政再建団体が生まれるのです。

体制崩壊と新政権へ、日本の過去にも似たような時期がありました。幕末と明治維新ですね。司馬遼太郎が好んで題材に使った時期です。かれは戦争体験を経て「日本の形」に疑問を感じ、多くの書物を残しています。この幕末の改革は、世情に疑問を感じた下級武士が主役になります。坂本竜馬などはその一例でしょう。黒船来航(1853年)が幕末から明治への切符になるのですが、その前から既に政権の矛盾は起こっていました。奇妙にも1853年の黒船来航と1867年の大政奉還の時間の流れは14年で、バブル相場崩壊の1989年から2003年のみずほの増資の安値までの時間が、これまた14年なのです。体制転換にはやはり必要な時間と言うのがあるのでしょう。

1778年 ロシア船、厚岸に来航

1792年 ロシア使節、ラックスマン来航

1804年 ロシア使節、レザノフ来航

1806年 幕府、外国船に薪水等供給を命ずる。

1808年 フェートン号事件(イギリス)

1818年 英人ゴルドン浦賀来航

1825年 幕府、異国船打払令を発す。

1837年 米船モリソン号来航、大塩平八郎の乱

1841年 天保の改革

1842年 幕府、異国船打払令を緩和し薪水飲料を供与させる

1844年 フランス船琉球に来航

1846年 アメリカ使節ビッドル来航

1853年 アメリカ使節ペリー来航

1854年 日米和親条約

1858年 日米修好通商条約(~59年、安政の大獄)

1860年 桜田門外の変

1864年 禁門の変、四国艦隊事件

1866年 薩英戦争、第2回征長の役

1867年 大政の奉還、王政復古

1868年 戊辰戦争、五箇条のご誓文

1869年 版籍奉還

1871年 廃藩置県、岩倉使節団

ペリー来航

この当時の日本は化政文化の時代です。
よく時代小説に十八大通(じゅうはちだいつう)の話題が書かれていますが、この時代が背景ですね。十八大通は蔵前の札差仲間のお金持ちが、金の力にまかせ馬鹿あそびをするのですが…
札差とは…幕臣(旗本、御家人)は年に三度、俸禄の蔵米(切米)を支給された。自家の糧食分を取り置いた残りは市中で売却した。その仲立ちをするのが札差である。武家は収入である俸禄が一定である一方、支出だけは増え続け、ほとんどが手元不如意に陥っていた。先の日限で受け取る切米を担保にして、札差からの借金で賄うしかなかった。もとは切米売りさばきの仲介人だった札差だが、次第に武家相手の金貸し業が商いの中心になっていった。

田沼意次が老中になるのが1772年、そうして松平定信の寛政の改革が1787年です。1841年に水野忠邦の天保の改革へ、寛政の改革に続き、二度目の棄捐令などと言うおかしな政策が発動されるのです。大名、旗本の苦境を救う為に借金の実質的な棒引きです。最近のゼネコンやダイエーなどの借金棒引きと同じ現象ですね。優先株の処理は、所詮、借金の棒引きのような制度です。あの当時の金貸しの札差が大変な損害を被り景気が悪化します。同じことが現代社会で起こるのです。今回は貸し手責任を問われ、銀行が疲弊しました。歴史は繰り返す。

その影響を受け自己資本が毀損した銀行は増資に走ります。2003年のみずほ銀行は1兆円の増資を行いました。激動の波乱を自らの力で乗り切ったのです。実は幕末のあの当時は、イギリスで産業革命が起こっていました。今のインターネットなどの通信革命と、あの当時の鉄道は同じ社会資本整備の飛躍期です。産業革命が時代を大きく変える様を、次回の「時代背景の背景」で探りたいと思います。次回は世界的な動きから日本を見てみたいと思います。1989年のベルリンの壁崩壊から東西冷戦が崩れ、BRICsの誕生と列強の植民地主義の変化が、またよく現代と似ているのです。